Note

The diary, 1st, Feb. Final presentation

Workshop day 10

07:00-08:00 Breakfast

08:00-08:30 Departures, transport to venue Benazir college

Work of Units

11:00-13:00 Final presentation 1

13:00-14:00 Lunch break

14:00-18:00 Final presentation 2

19:00-22:00 Dinner break

22:00-22:30 Departures, transport to hotels

10日間のワークショップの最終日かつプレゼンテーション日。最悪の事態(学生に逃げられる)を想定しつつ、日本人側がやや早めに集合。支度にはいる。発表はプロジェクションが基本なので、予想外に進行が早そうである。すぐにインド人側学生が集合してホット胸を撫で下ろす。

今朝までに日本人側のつくったプレゼンテーションのだいたいの構成を説明しつつ、全員の学生で言葉等を入れて、最終の形に仕上げている。インド人側学生は仕事も早く、すぐに構成を理解し、言葉を補充し始めた。見違えるようによくなっていく。発表の順番も決まり、先は見えたようだ。

第一のグループが終わったあと、ほかのグループの準備がまだなので、ユニット3に急遽順番が回る。昼食が控えているので、時間は大丈夫かと聴いてくるので、「とにかく学生発表の邪魔をするな」と依頼する。わかったとスタッフも理解する。地域の高名なる人々がわれわれの話をきいているらしく、お互いに神経質になっている。

発表がはじまった。当日のプレゼンテーションは、上部からのプロジェクションを中心に、参照となる場所の学生たちが撮影した写真をまわりにちりばめた構成。聴衆者、当然机に直に近寄らないと見えないので、雰囲気はかなり良い。プレゼンテーションがはじまる。

当日行なったプレゼンテーション画像は上の通りである。やってきたプロセス、その最終系としてのこのワークショップの間の工場跡地の周囲に生きる人々の隠された交換、コミュニケーションを可視化するガイドルートが提案された。またその他に今回のGPS+写真での記録の方法が持つ将来への可能性が学生からきちんと伝えられた。日本人学生も僕よりぜんぜん英語がうまい。

ファイナルプレゼンテーションの様子

その後ディスカッションにはいる。目的、手法に対する共感が得られたらしい。ジュリーする側のコメントもきわめて好意的である。先日でてきた小栗旬に似たニューヨーカーの「いやな奴」も好意的なコメントを発言しつつ、将来のランドユース計画に汚染の分析の欠落を指摘した。空気の変わりそうな鋭い質問で心配したが、その必要はなかった。「このドローイングは、私たちが周囲を歩きヒアリングをし、その結果得た、要求の図面である。汚染問題とは抜きに将来に対して有効である」とLoveleenが喝破。決着ついた。

ファイナルプレゼンテーションに対するディスカッションの様子。

その毅然さに聞き惚れて、影でちょい泣きしていると、学生に見つけられて笑われた。

一段落、昼食中、ネパールのユネスコ関連の人から、もしよければ同じようなワークショップをやってくれないかと尋ねられた。もちろん行きますよと答えた。

その後も色々とつきあわねばいけないことはあったが、村松伸さんのグループに対するジュリーを聴いたところで、中谷チームは会場を離れることにした。帰りにJubinという、ドラえもんで言うとジャイアンのような参加者が軽々と僕のことを持ち上げて、またこいと言った。俺の生徒になってもいいよと言ったら考えておくとのこと。

翌日午前4時起床。リキシャーで寒風吹きすさぶ冬のインドを空港まで40分。ボパール→デリー→バンコク→羽田で帰路。途中バンコクの空港内のレストランで大盤振る舞いして羽田まで爆睡。終わる。

『ヒロシマ・モナムール』という映画がある。アラン・レネ監督により1959年に製作された。この映画に登場する主人公たる男女二人。一人はフランスから来た女優で日本でヒロシマの映画を撮りにきた。もう一人の行きずりの日本人男性は建築家である。女優には過去に敵国ドイツの兵隊との秘事により、家族に監禁された経緯をもつ。ドイツの兵士は射殺された。複雑な背景を抱えた映画の筋だ。ここに原爆ドームの初期の姿や、丹下健三による広島平和資料館の竣工当初の姿がでてくる。驚くべきことに室内の床には水が打たれ、平和広場には焦土そのままのような空漠さが広がり、強烈な光が射している。日本と言うよりはインドのような風景だ。この映画は僕が常に先行形態論を講演するたびに参照していただくものだ。僕がボパールに来たかったのは、このヒロシマとの重なり合わせが多分にあった。19歳の頃ニュースで聞いた、ボパールの悲劇的な事件は衝撃的なものだったからだ。しかし、

「君は何もみていない」「私はみたわ」

男女によって反復されるこの会話のように、そのような「悲劇」への態度だけでは僕はボパールの現在をけっしてみられなかったろう。二日目に学生たちが、報告してきた工場跡地に普通にはいって、その跡地の気にたわわに実る果物をとって帰る女性たちの群れ、その”グラウンディング”の美しい写真(プレゼンテーションのWALKINGというページの写真に使ったものだ)をみたときに、私たちは方向性を変えた。

ユニオンカーバイド工場事故跡地の木にたわわに実る果実をとって帰る女性たちの群れ

そして「悲劇」の影に隠れた、工場周辺の日常生活を記録することに決めた。それがなお汚染の大地の上に実った果実であったとしても。

「悲劇」を基本とする限り、この複雑な土地にコミットすることもできないだろう。この土地に渦巻く様々なコンテクストを知るたびにそのあきらめのみが増幅された。”Jeeth, It is not my business.” 僕はパートナーに語りかけた。でもやはりワークショップは好きなのだ。そのような渦巻くコンテクストを一瞬吹き飛ばすような、だれもが素人になるような、目的と手法が存在する。そのタネを少しは学生たちと共有することができた。
最後に準備のときに最大限の知的協力をしてくれた「タクす会」の石川初、日埜直彦、木下剛、宮崎敦寛に最大限の感謝を記す。

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