久々に新鮮な建築を見た気がした。もちろん出来たてのほやほやなので物理的に新
しい。それに加え、地下空間や人工地盤を用いたことなど寺社建築に対する鈴木氏
の視点も新しい。石・鉄板・木と擁壁・人工地盤・建物の組み合わせ、そしてそれ
らの明確な分離、まさにこの世とあの世を分けているような異質な空間であった。
これだけでも十分に新鮮な建築であるといえるが、この建築の鮮度は「新しい○○」
によって保たれているのではない。「新しい○○」ならば、時間が経てば古くなっ
ていく。時間軸にのらない鮮度というものがこの建築には存在するのである。鈴木
氏のもくろみは隅々まで行き届いていた。我々を含め来訪者は、まず石で出来た擁
壁に驚く。「まだ工事中か。」という声が後ろから聞こえた。振り返ると参拝に来
たおじさん達だ。彼らはそのまま去っていく。そして私は「にっ」とひそかにほく
そ笑む。と同時に「してやったり」という鈴木氏の声が聞こえてきそうな気がして
再度後ろを振り返った。鈴木氏の裏切りだ。人々が新しいと思ってしまう状態、形
に対する裏切り。石段がそのまま垂直に切り替わったという擁壁は、三次元的な方
向転換によって人々の常識を裏切る。鉄の錆は新しいが古い状態であり、ここでも
見事にしてやられる。そして極め付けは中庭。まるで、やり場の無い余った土を盛
ってできたかのような仕上がりである。しかし、この空間は微妙なバランスで成立
しており、上層部の建築と地下の空間をつなげる重要な役目を担っているのである。
感服の至りであった。

「鈴木了二さんはとても頭のいい人だ。」と、ある歴史家が言っていたが、その頭
の良さが節々からあふれ出てしまっている。どこを見てもすきがない。例えばそれ
は「人工地盤の途切れ(写真参照)」や「目を疑うほどの張り出し」、高級マンシ
ョンのベランダと見まがうような「突き出た白い窓」などである。まさに切れ味の
良さが売りである。まるで何世代も語り継がれ洗練された物語のように続く空間構
成、そしてどこまでも外界に拡がる空間。ここに究極の鮮度がやどっているのであ
る。鈴木氏の笑顔の裏側にある建築に対する真剣さが垣間見えたような気がした。