本殿ゾーンに上る石段の左手に、鈴木了二の建築は山の緑から現れる。擁壁と鉄板の
人工地盤との間に、延びるようにガラスが不思議なバランス感覚のディテールで納め
られている。擁壁、人工地盤、ガラスは相互の関係が考えられたという印象は受けな
かった。それぞれが山の中に存在しているという感覚である。
 しばらく外部空間や斎館棟の地下空間を体験する間に、この建築には「全体」とい
うよりも「部分」の存在が大きいと強烈に感じた。
 それには、まず、「部分」がそれ自体を強調するようにつくられているという理由
があるのではないだろうか。例えば、擁壁には石、人工地盤に鉄、屋根には木という、
部分によって材料の違いがある。それぞれの部分が各々の存在を、材料を異にするこ
とで際立たせている。また、本来ならば、あるはずのものが意図的に無くされている
箇所がある。例えば、スラブにはスリットが入って部分化されている。人工地盤下の
ヴォリュームと人工地盤との間の隙間があるのも、その一例である。
 雑然とした部分の集積である地下空間から、寂しげな中庭に出る。ここで、先程の
「部分」に対する神経はますます敏感になる。もし、「全体」が「部分」よりも有力
なら、中庭の山は青々と茂り、周辺の山と一体化するようにつくっていただろう。ま
たは、人工物として完結している事を象徴するように、有機的なものはエスキスの途
中段階のように、何一つ置かなかったであろう。地下空間にいる間には、行き来する
事の出来ない開口からは周辺の青々とした外部を感じることが出来る。しかし、実際
に触れることのできる外部とは、この未完成な山の中庭である。地下空間から中庭に
出るときにも、完結しているものに直接触れるという事は無かった。ただ部分的な人
工物と部分的な自然を移行するだけなのである。
 以上のように様々なものを、「部分」として感じた。完結していない「部分」から
つくっていったことによって、強い「全体」ではなく、不思議なバランス感覚として
あらわれているのではないだろうかと思った。