高過庵に登るために、はしごに手をかけ上を見上げる。思わず微笑んでしまう。きっと誰もが同じ気持ちになるのだろう。みんなを楽しくさせてしまうこの高過庵を茶室として少し考えてみよう。高過庵は、ただ純粋に茶を飲む事を楽しむ茶室だろう。その理由は次の三つ考えられるのではないか。
 まず入り口が一つしかない事である。大抵の茶室は主人の入り口(茶道口)と客の入り口(躙口)は異なる。つまり、茶室には二つの出入り口が存在する。ここには主人と客の立場がはっきりと分かれている。しかし、高過庵には躙り口一つしかなく主人も客もそこから入る事になる。主人と客は同じはしごを登って、茶室に入るまで同じ風景を見るのである。
 次に畳ではなく籐のござが敷かれていることである。茶道にとって畳は重要である。点前畳や客畳というように茶室の中での行動範囲を規定したり、動線を限定したりするものである。それがないのであるから、茶室内での行動の自由度は増すのである。
 最後に注目したいのは、床がない事である。台子を茶室から無くし、二畳の茶室をつくった千利休の茶室においても床が小さくなる事はあっても、なくなってはいない。つまり床は茶の湯にとっては重要とされていたのである。その床がないのである。つまり高過庵では床にある墨跡や唐物を楽しむのではなく、みんなと茶を飲む事を楽しむ事を目的としているように思える。
 以上の様に主人と客の間には同じものを共有することによって立場は近いように思われる。また、格式ばった茶道はそこには見られない。このように見ると、高過庵にはいままで茶室にとって当たり前とされていたものがなく、茶に必要な炉だけがあり、そこには形式ばった感じは受けられず、ただ茶を飲む事だけを考えた茶室と言える。実際、中に入ってみると正座をして張り付いた空気の中で茶会を行うというよりは、楽しく笑いが飛び交うような様子が浮かんでくるのである。