冬季展示会のエピローグ(オーストリア博物館)

”ディ・ツァイト” 1899年2月18日

 

 宮廷顧問官フォン・スカラが登場してからというもの、ウィーン人は息つく暇がない。毎月、オーストリア博物館に足を運ばなければならないのである。ひとつの展示が終われば、すぐに次の展示が始まる。これでは昨年のクリスマスにオーストリア博物館で開催された冬季展示会をふりかえる余裕もないではないか。

 スカラが主催した冬季展示会の最終日には皇帝が訪問され、館長スカラに対して大変満足したと感想を述べられたが、その一方で、同時期にすぐ近くで開催されていた工芸連盟主催のクリスマス展示会の方は鑑賞されなかった。出展者の中には皇帝の訪問を期待して、会場内をきれいに磨きあげる者までいたという。ご苦労な話ではあるが、それも無駄に終った。皇帝どころか、いままで工芸連盟の展示会には毎回足を運んでいた大公たちまでもが今回は黙殺したのである。なぜだろう。連盟がスカラの展示会つぶしのために皇帝を利用しようと画策し、スカラの人間性に関して皇帝に虚偽を吹き込もうとしたことが、大公たちの逆鱗に触れたからではないか。工芸連盟は皇帝が「外国製品をオーストリア博物館で販売させることとオーストリア博物館館長を務めることは両立できるものではない」と発言されたと吹聴したが、皇帝のスカラへの対応を考えると、これは嘘であり、ネガティブキャンペーンの一環でしかなかったということを十分に暴露しているのではないか。私の推察が正しければ、大公たちがなぜ工芸連盟の展示会を無視したのか納得できるだろう。そして事実、皇帝が吐いたとされる発言は事実無根であったことがのちになって判明した。一連のスカラ攻撃は工芸連盟による商売上の低級な謀略に過ぎず、その厚かましさたるや前代未聞であった・・・。

 オーストリア博物館の冬季展示会のおかげで、ウィーン人たちは新しいものと数多く出会い、吸収することができた。スカラが館長に就任したこの一年で、ウィーン工芸界が過去10年分以上に匹敵する前進を遂げたことは確かである。もっともまだ多くの成果が出たわけではない。この10年工芸は停滞し、なんら進歩がなかったからである。だがいまはもう安心しよう。われわれは再び前に向かって歩き始めたのである。

 この新しい挑戦はどのように受け止められているのだろうか?肯定的か、否定的か?新しく挑戦するものは報われ、挑戦しない者は相手にされないのか?それともその逆か?ありがたいことに、世間が確実に肯定的に捉えていることは間違いない。ひとびとは直観的な判断によって正しいことを支持し、工芸関係者たちを悩ませてきた問題も解決に向かい始めている。だから余計な言い訳をする必要もなくなった。というのも、私が自説を展開すると、かつてはいつもこんな言葉が返ってきたものだ。「ええ、確かにあなたのおっしゃるとおりでしょう。ただしそれが通用するのはイギリスとアメリカだけです。ウィーンではそうはいかない。あなたは商売をしていないから、ウィーンの本当の姿をご存じではないのです」。

 失礼ながら申し上げるが、いまやウィーンでも私が正しかったことを、ウィーン人が身をもって証明しているではないか。いまやひとびとはインテリアの一切を任せてきた壁紙職人とは縁を切り、自分の家の内装は自分でやると言い出した。この展示会でたくさんの家具が売れたことがその実践ぶりを物語っている。壁紙職人の支配の下、かつて誰も家具を買う勇気はなかった。ほしい家具があったとしても、「やはりわが家には合わない」と肩をすくめるしかなかったのだ。そして実際、合わないようになっていた。どの部屋も素人が手を加える隙がないほどきっちり出来あがっており、新たに鉢植えを置こうものなら部屋全体の調和を乱しかねなかった。まして新たに椅子を置くなどもってのほかだった。椅子を一セット別の部屋からもってくることなど無理な相談だった。一つとして世界に同じセットの椅子は存在せず、その都度、置かれる部屋のためにデザインされ、組み立てられたのである。こんなやり方を「個性を考慮する」と妙な言いまわしをしたが、「壁紙職人の個性を考慮する」と一言つけくわえるなら、理解できるというものだ。

 誰も持っていない家具を持ちたいという見栄を捨てることに、みなが躊躇しなくなってきたようだ。同じ椅子に注文が殺到しているのである。イギリスの椅子の複製であるが、これならわが国の工芸に損害を与えることはあるまい。質の良くない国産品より、良質のイギリスの椅子が求められている。こんなことはあたりまえの話だが、逆だったら目も当てられない。もしそんなことになれば、国産の椅子は年々悪くなるばかりだろう。にもかかわらず外国産より国産の質の悪いものがいいというひねくれ者もいる。その伝でいくと、オーストリアの音楽家ハンス・リヒター[1]がイギリスに招聘されたことは、イギリスの音楽と音楽界にとってマイナスだということになるではないか。

 イギリス人は音楽の分野では三流だが、家具づくりでは一流である。彼らは100年かけて座り方の秘訣、ゆったりくつろぐ秘訣を徹底して研究してきた。彼らの研究成果を学ばないのはもったいない。オーストリア人がより新しい椅子を探求することに時間を費やしてきた一方で、イギリス人はより良い椅子を作ることに専念してきたのである。われわれもよく効くイギリスの処方箋にしたがって、より良い椅子を手に入れようではないか。国産の椅子がイギリス製と遜色がなくなる日も、そう遠くはない。悪くないところまで来ているのだ。あとほんの少しで追いつくのは間違いない。

 いまや椅子は一部屋に一セットという形で扱われなくなり、一脚一脚違う椅子が家の中にやってくることになった。唯一の例外が食事部屋である。この部屋は家族一同が集まり、決まった時間に同じ行為をする場所である。同じ物を食べるという行為を成り立たせるために、集まった者は個人の都合や快適さを進んで手放すのである。これは上流社会ならではのふるまいである。食事部屋は建築家、壁紙職人、家具職人の誰に任せようと、今日でも一人の職人にすべてをゆだねるのが正解である。今回の展示では、バンベルガーの手になる、マホガニーとツゲ材を組み合わせた象嵌細工のあるシェラトン様式[2]の食事部屋が紹介されていたが、この程度なら中流の市民でもしつらえることができるだろう。

 もうひとつの食事部屋にもふれておこう。こちらは現代的なものだが、ひかえめに抑えた美と同時に貴族的な絢爛さが混ざり合い、フランス的センスを強く感じさせる。この部屋が持つすぐれた価値を見極められるのは本物の目利きだけだろう(ポルトワ&フィクス[3]制作)。他の用途の部屋に関しては、次の点だけ注文をつけておきたい。部屋というものは、どの様式であれ、どの材料であれ、どの時代の家具であれ、それぞれが持つ独自の魅力を殺すことなく、すべてを受けいれるものであってほしい。これは客間(サロン)にも言えることだ。それが無理ではないことは、ジークムント・ヤーレイ[4]がナシ材でつくった客間(サロン)を見ればお分かりいただけるだろう。(ザンドール・ヤーレイと混同されないように)

 ナシ材を選ぶことは古くから続く習慣を捨てることを意味した。理由は分からないが今までインテリア用の資材としてナシ材が使われたことはなかった。伝統を打ち破ることができるかどうかは、勇気の問題である。ヤーレイの試みは成功した。磨きあげたナシ材の格調高い雰囲気、かすかに銀の光沢を放つ上質のタバコのようなつやのある焦げ茶色。これらのすばらしさは、計り知れないものがある。実に目の覚めるようなすばらしさだ。さらに注目すべきなのは部屋壁の被覆、暖炉、造り付けの棚であるが、みな調度品ではなく、家の設備に属すもので、家主の注文によって建築家か室内装飾業者、あるいは家具職人のいずれかひとりの人間が担当し、作り上げるものだ。ナシ材でできた見事な家具だけでなく、――当然それらはセット一式でそろっているものではない――、別の材料の家具もまわりに溶け込んでおり、この空間がどんな家具でも受け入れることを十分に示している。また材料、着想ともに優れた逸品は暖炉である。壁はメキシコのオニキス[5]を使用し、銅と真鍮からなる二本のラインで装飾されている。二つの花の写実的な装飾は、無名のブロンズ職人として暮らす芸術家の自由な発想から生まれたもので、日本的な美の世界を持った一級品である。この芸術家は日本の職人から直接教えを受けたわけではない。だが芸術は時代の中にあるものであり、場所に縛られるものではない。だからこそドイツ人アルブレヒト・デューラーも、時代に求められれば、故郷ドイツを離れイタリアのひとにもなったのである。

 あらゆる彫刻装飾はフランツ・ツェレツニーに端を発するといっても過言ではない。彼が制作してきた作品の中で、このサロンの扉飾り(ズプラポルテ)[6]がベストだろう。タイトルを「夜」という。あの有名な眠そうな女を彫った木彫ではなく、アカンサスがモチーフの彫刻である。この部屋を訪れ、この装飾を目にした者は、弱々しく疲れて眠るアカンサスを見て、夜を感じるだろう。葉はしおれ、こうべを垂れている。その姿はまるで月が嘆き、山があこがれ、木が夢を見るコンスタンティン・クリストマノスの秘教的な歌の世界が目の前に現われたかのようだ。全体からは木彫りらしさが強く感じられ、ありふれた石のアカンサス彫刻を思わせるものはない。

 次は三つの寝室を見てみよう。どの部屋も、これ以上手を加える所がまったくないといっていいほど、細部に至るまで配慮されている。もっともミュラーが出品した狩猟用邸宅の屋根裏部屋の寝室は、まだ手を加える余地がある。この部屋は狩猟用として一時的な滞在しか想定されておらず、寝起きさえできれば、内装は誰がどのように手をくわえてもよい。ほかの二つの寝室の内装はそこまでの余地がないが、どちらも注目に値する。実用向きではないが、二つの部屋の木材の加工処理はきわめてすぐれており、今後模範となるだろう。その一つ、建築家ハメルが設計しニーダーモーザーが施工した男性用の寝室は、緑に塗られたサクラ材を基調としている。特に彫刻装飾と装飾金具が木材の効果を見事に引き立てている。もう一つは、磨き上げたカエデ材で作った少女の寝室である。シェーンターラー製作のこの部屋は、既存の木彫芸術を否定しているようなもので、これ以上シンプルには仕上げることはできないだろう。その魅力は驚くほどの精確さにあり、その精確な仕事の中に品が宿る。部屋全体からは、精巧に作られた靴のような気品を感じる。この気高い雰囲気を安っぽい細工でイミテーションすることなど不可能である。この様式を前にすると安易なイミテーションはナンセンスでしかない。この部屋はまさに家具作り職人の大勝利であると言えよう。   

 家具作りは叫ぶ。

 彫刻よ、おまえなど必要ない!金細工よ、おまえなど必要ない!コーニスも、コーティングも、ろくろもいらない!私はただ木々をつなぎ合わせるだけである。それで十分だ!と。

(4550文字)

 

  1. ハンス・リヒター(Hans Richter, 1843-1916)はオーストリアの指揮者。ウィーン音楽院卒業後、リヒャルト・ワーグナーの下で指揮を学ぶ。ワーグナーの作品の他にイギリスの作曲家であるエドワード・エルガー(Edward Elgar, 1857-1934)の作品の指揮で知られる。
  2. シェラトン様式(Sheratonstile)は18世紀、イギリスの家具作家・図案家のトーマス・シェラトン(Thomas Sheraton)によって作られた家具様式。アダム様式やフランス・ルイ16世様式から影響を受けた幾何学的形状と厳格なプロポーションを取り入れ、古典的で簡潔な優美さを特徴とする。
  3. ポルトワ&フィクスは1881年に室内装飾家のアントン・フィクス(Anton Fix, 1846-1918)とオーギュスト・ポルトワ(August Portois, 1841-1895)によって設立されたウィーンの家具メーカー。主に個人受注や帝国の内装を手がけた。アントン・フィクスは建築家と共同して家具を製作することが多く、オットー・ワーグナーやヨーゼフ・ホフマンなどがいた。また、ロースとはアメリカンバーやクニーシェ洋服店で共同して内装を手がけた。
  4. ジークムント・ヤーレイ(Sigmund Jaray, 1838-1908)は現ルーマニアの都市ティミショアラ出身のインテリアデザイナー。タペストリー、家具、彫刻、絵画など様々な分野で活躍した。1870年に自身の工房を開き、ウィーンに移住。1891年に王室御用達のタペストリー工房に選ばれたほか、大衆向けにビーダーマイヤー様式の家具を量産し、成功を収めた。
  5. 石英、玉髄、オパールなどが石のすき間に沈殿して生成したものを瑪瑙という。その中でも特にの縞模様の明らかなものはオニキス(縞瑪瑙)と呼ばれ、古くから彫刻等に用いられてきた。メキシコのオニキスは透過性の高いことで有名で、板状にして建材にされることも多い。
  6. 扉飾り(Supraporte)は室内扉の上部に設えられた絵画や彫刻による装飾のこと。コーニスを応用した意匠がよく用いられる。ドア側面にまで装飾が及ぶ場合もある。