ドイツ大手家具メーカーへの公開書簡

公開書簡 1929年

 

 指導的立場にある工芸専門の新聞社が、ロースの名前も主張も一切載せないからということを条件にして、某芸術グループから芸術家に関する情報を仕入れていたという話を耳にしました。そんな話聞くにつけ、この新聞には印刷するものがなく、だから廃刊になったということが納得いただけるのではないでしょうか。シュトゥットガルトのF教授はごたいそうにも、その記事をスクラップして、わずかながらいまも所有されているということです。

 私はオーストリアとドイツの工芸界の人間たちのやり方をよく分かっています。私がいつも主張しているのは、職人と消費者の仲介役を務める存在をなくすべきだ、つまり建築家は家具業界から消えるべきだ、ということです。この主張はインテリアを仕事にする建築家にとっては命にかかわる問題でしょう。私の要求を現実化するためには、まずはドイツのひとびとが自分の力で文化を手中に収め、手綱を握る必要があります。

 職人は、自分の属す文化のフォルムを使うことで初めて仕事をすることができます。文化を持たずして仕事ができるのは建築家だけです。職人はまた同時代の様式を使うことで初めて仕事をすることができます。私はかつて、同時代の様式で作られた家具とはどういうものか説明したことがありました。家具を見れば、製作過程に建築家は必要ないということが明らかでした。その事実をもって、私は建築家に死刑宣告を下したのです。

 家具製造に携わっている方たちにいつも申し上げるのは、私たちは自分たちの様式、つまり同時代の様式でしかものをつくることはできないということです。モダンを体現するテーラーは、そのことをよくわきまえています。家具職人が建築家とのしがらみから解放され、意匠デザイナーが職人に口出ししなくなった上で家具を作らない限り、私たちが文化を持つことはできません。だからと言って家具職人に対し、私の意見に同意するよう求めるつもりはありません。そんなことをすれば損をするのは目に見えているからです。美的観点から見れば、時代にそぐわない建築家の家具は、もってせいぜい20年です。それだけにすぐまた新しい注文が入り、仕事は回るのです。しかしモダンな家具は末長くもちます。そうした家具は時を経れば経るほど値段がつき、価値が上がっていきます。

「どんなものも、ものとして保っている限り使い続けられる」という原則を守り続けたいと私は考えています。しかしそれは家具職人にとって自殺行為となるでしょう。ですから家具製造に携わる皆様には、私と関わってはいけないと申し上げているのです。私の二の舞を演じることになりかねません。

 10年ごとにインテリアを一新させよ、10年ごとに食器類を一新させよ。

 これがいわば現代精神を無視した昨今の商売人たちの秘めたるスローガンです。彼らと歩調を合わせるのが賢明です。そうすれば私のように孤立することなく、何百もの家族の暮らしの面倒を見ることができるのです。

 パンツのようなモダンなものが、同じデザインでありながら品質の違いから10倍もの値段がついていることがありますが、家具の値段は、そういうわけにはいきません。もしそんなことをすれば詐欺師と見なされる。つまり今日の工芸において品質は問題にされていないということです。しかしそれこそ問題なのです。工芸に携わる以上、芸術とは一線を画し、モダン精神を貫くには、品質の違いこそが大事であるということを理解しなければなりません。

 ものづくりの現場から建築家を締め出し、品質の違いにこだわるべきだという私の主張はウィーン工房でも取り上げられ、高級品が議題の対象となりました。しかしその場で名前が挙がったのは、幾世代にも渡って伝えられてきた職人仕事の結晶であるスイスのシャフハウゼンの時計ではなく、ある宮廷侍女官が作った作品でした。職人の腕や考え方よりも、芸術家の自由な『遊戯衝動[1]』が大きな力を持つのだという結論に落ち着きました。これなら確かに建築家はいらないでしょうが、モダン精神もいらないという彼らの本音も見えたのです。

 私の主張はあちこちで混乱を引き起こしています。貴社が私に興味を持ってくださったことにはまことに感謝しておりますが、私の言葉には耳を貸さないよう、ご忠告申し上げます。 

(1768文字)

 

  1. 『遊戯衝動』(Spieltrieb)はドイツの劇作家・詩人のフリードリヒ・フォン・シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller, 1759-1805)が論文『人間の美的教育に関する書簡』(1795)内で提唱した美学的概念。感性と理性という人間の本性から発する対立した「感性的衝動」と「形式衝動」が理想的に交互作用している状態を示す。シラーは論文内で遊戯衝動を、一切の偶然性・強制を廃棄し、人間を自然的・道徳的に自由にするものであると説明している。