亀裂の保存・中村達太郎『日本建築辞彙』を読む

中谷礼仁

本論は『建築文化』2000年1月の日本のモダニズム特集に掲載されたものを再編集しています。


…それが主張しようとしているのは、本質−換言すれば確信を強要するもの−は、近い過去の強力な作品によって、大いに決定されており、またそれゆえそれへの応答において継続的に変化するものである、ということだ。絵画の本質とは、削減できないような何物かではないのだ。むしろモダニストによる絵画の仕事は、いま現在、その因習だけが、彼の作品のアイデンティティを絵画として確立しうるような、そういった諸因習を発見することなのである。

「芸術と客体性」、マイケル・フリード

とりあえず、モダニズムという態度の規定を、ここからはじめたい。漫然と承認されたモダンの範疇においてモダニズムを再読することに、さほど、言及する意味が認められないからである。そのような行為は、特に日本近代を対象とする場合、よくてそのお家芸の「洗練」に加担しておわる。
そもそも「切断」(モダニズム)を成立させる基体が存在している。日本の近代建築をかろうじて成立させているそれについての注釈からぜひともはじめるべきだ、と私は思う。

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(写真:中村達太郎と日本建築辞彙)



●彼は不統一を編纂の主眼に置いた

いばら(茨)
曲線相曾シテ生ジタル角点ヲイフ。加州 辺ニテハ之ヲ「いが」ト称ス。(英 cusp)。図ノ一ハ唐破風からはふノ茨ニシテ、二ハ窓ノかすぷナリ。(いず)レモ尖端ヲ有スルヲ見ルベシ。(ただ)かすぷノ語源ハ尖端ポイントノ意義ヲ有スル羅典ラテン語ニシテ、いばらニモ其意義アリ。地方ニヨリ毛毬イガト称スルモ(また)同一義ヨリ出タル語ナリ。(しか)ルニ星霜ヲ経ルニ従ヒ、漸々原意ヲ逸スル者少ナカラズ。茨モ亦其例ニ洩レズ。即チ図ノ三及ビ四ノ如シ。三ハ徳川時代ノ唐破風ニ見ルコトアル茨ニシテ、四ハ十五世紀ノ某窓ニ設ケタルかすぷナリ。何レモ尖端ヲ有セズ、全ク原義ヲ失イタル形ナルヲ見ルベシ。

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(図1:『日本建築辞彙』「いばら」の項より)


いま能うかぎり、その表記を再現してみた(カッコ付のルビ、また句読点は引用者による、以下同じ)。その辞書は、いろは順なので「いばら」からはじまる。中村達太郎(1860ー1942)一人によって収集、編纂された『日本建築辞彙』 (以下辞彙-じい-とする)は、いわゆる「日本建築」だけについての辞書ではなかった。伝統的な日本建築から、当時の西洋式建築の部位までの4000語弱の建築関連用語を、ほとんど等しく(等価ではない)並べている。その意味での日本建築の辞彙である。
中村は、明治15年工部大学を卒業し同20年まで皇居造営に携わった後は、帝国大学工科大学教授として、以来専任の教育・研究者となった。たとえば辰野金吾が建築意匠を、伊東忠太が建築史を専門的に担当したのに比較して、中村はその他の領域をオールマイティにこなした。中村は、現在では全く忘れられた存在といってよいが、今にいう建築環境学や材料学、構法、施工、建築法規など多様なジャンルの事実上の創始と見なす評価もある。また明治期の殆どを通じて『建築雑誌』の編集委員をも任じていた 。中村は、自らの行為を一つの専門領域として閉じることがなかった。むしろ建築の外延において、ジャンルとしていまだ自律していない領域を探しだし、それにいくばくかの学的な整理を加えた。この非理念的な性格が、彼の特徴といえば特徴である。彼の著した技術書は実に多岐にわたるが、それらの中でも辞彙はもっとも興味深く、豊かな情報に満ちている。
辞彙は、1906(明治39)年に初版され、いくたびもの改訂を経て、中村の死後も戦後まで版を重ねた。絶版後は、特に「日本建築」に関係する実務者、研究者の間では、何世代にもわたって複写され続けてきた。私のものは、もう、だいぶかすんでしまっている。日本初の本格的な建築辞書であり、またこの100年に国内で発行された類書のうちで、これだけの命脈を保ってきたものも他にないだろう。現在流通している建築辞書の、少なくともその「日本建築」に関する項目を照らし合わせることも無意味に近い。なぜならほとんどの部分がこの辞彙を引き写しているからである。
このように優れた辞書であるにもかかわらず、中村はその序の中で、奇妙にも、こう書いている。


説明の繁簡区々にして、一見統一を欠き居る如くに見ゆるならんが、其不統一なることがすなわち余の注意したることである。

つまり不統一にすることが、彼のここでの主要な課題であった。その表記は、確かに、「いばら」の項に象徴されるように、錯綜している。西欧の類義語が引き当てられ、それらの意味の変容も併せて指摘される。いばらは、むしろ確定されていないことによって「いばら」なのだ、とでも言いたげである。
なぜ不統一な建築辞書が、かような命脈を保ったのだろうか。むしろ中村のいう不統一にこそ、その鍵があるのではないか。いくつかのプロセスを経たうえで、私たちは再びこの辞書に立ち戻ってみたい。


●モダンとモダニズムとはわけて考えたほうが良い


近代世界(モダン)には様々な規定がある。ここではごく一般的なその図式として、二つの解釈を採用してみたい。一つはI・ウオーラーステインのいう近代世界システム(Modern World System)と、もう一つはB・アンダーソンによる国語による認識空間の公定(National Printed Language)を主軸とした近代・国民国家論である。
前者は、単一の分業によって覆われる広大な領域で、その内部に複数の文化体を包含する世界システムとしての近代像である。近代世界は「国家」を単位として動くのではなく、国家間におけるひとつのまとまったシステム(構造体)をなしている、とする説である。15-16世紀における西欧の世界帝国から資本主義化を第一波とし、19世紀において世界の大半が組み込まれたという。
そして後者における、18世紀後半から成立しはじめた国民国家とは、同じ「時間」「空間」を共有する「我々」(国民)がいると感じることによって成立する。この共有された空間の下部構造に、国民的出版語がある。つまり時の権力によって公定された言語の専一によってこそ、国家を成立させる空間は生まれた。たとえば新聞をにぎわす、さまざまな事件に象徴されるように、互いになんの脈絡もないはずなのに、そこになんらかの共時性が感じられてしまうこと自体が、すでに特定の空間を作り上げている。つまり公定された言葉が共通の時間や空間、要は奥行きのある歴史を事後的につくりあげる、という説である。
これらは均質性と固有性をめぐって、一見対立しているかのように見える。しかしアンダーソンの、新聞という見事な比喩に象徴されるように、その固有性は、均質的な時空間を成立の条件としている。つまり均質性の幻想は生産システムとして、そして固有性の幻想は解釈システムとして併存する、同じ平面のつがいである。近代・日本・建築とは、その意味において、均質的な時空間を前提とした「自国的文化」の発露であった。そしてこの平面が、私たちの建築認識における、制度的な〈みえがかり〉を構成している。20世紀初頭のモダニズトたちが、折衷的な建築様式の断片(装飾)を捨てたのは、そこに疎外された固有性を見たからであった。その因習は、作品成立の条件を他のものへと変換、流通させてしまうからである。だとしたら、モダニズムという行為はこのモダン一般の平面に、垂直的に亀裂を入れる行為でなければならない。その裂け目から、彼らにとってより本質的な因習を見いださねばならない。彼らはその意味で優れた歴史主義者なのである。だからモダンの平面とモダニズムという垂直性は、わけて考えたほうがいい。
では中村が切り裂こうとした、当時の日本における、モダンはどのような平面をしていたのだろう。


●中村は奇妙な懸賞問題を提案した


1904(明治37)年8月、中村は、建築学会の機関誌『建築雑誌』に以下のような懸賞問題を広告している(中村達太郎出題・扇垂木等間の計算法『建築雑誌』第二一二号、明治三七年八月)。それは日本建築のいわゆる禅宗様ぜんしゅうよう特有の意匠である扇垂木たるきに関する証明問題であった。扇垂木はその名のとおり軒裏の垂木が放射状に配される形式で、その垂木の等しい間隔を導きだす解法を募ったのである。

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(図:明治期建築書における扇垂木の解決法の事例)


応募10編というこの小さな企画の連載(応募者それぞれの説を号ごとに詳細に掲載している)の途中、自身によるその解答案ともいえる「扇垂木の計算及び圖法新案」 で、中村は、実は扇垂木の研究などははなはだのんきのことで決して眉焦の急なる実用的のことではない、と述べている。時代は日露戦争の真っ最中だった。
実は、この「のんき」は、彼の文脈においてはほとんど正反対の意味あいが込められていたように思われる。この懸賞での追及の対象となったのは、実は扇垂木そのものではなく、その背後にあった、近世以来の大工の高等幾何学としての規矩術きくじゅつであった。扇垂木の配置法は、規矩術のもっとも困難な問題群とされていたから、対象としたまでである。
規矩術とは、日本建築の美的中心である屋根から軒裏を対象とした、複雑な部材のかたち、加工形状を曲尺かねじゃくをもちいて導きだす応用幾何学である。この技術は大工の奥義といわれながら、実はその完成は幕末においてであった。さらに明治以降西洋建築の日本への導入にともなってさらに発展するという、奇妙なうごきをしている。現存する明治期に公刊された建築書を通覧するとき、その主調は建築家たちによるものではなく、実はその多くがこの規矩術書で占められているという、驚くべき事実に遭遇する 。もちろんその担い手は、近世以来の大工棟梁の中の学究肌の人々であった。つまり伝統技術と考えられていたはずのものが、当時最新の建築様式の中においてこそ発展しているのである。明治30年代は、以上のような規矩術の展開が最高潮を迎えていたころであった。彼らによって西洋式建築の様々な部位やかたちが追及(征服)の対象とされ、トラスや螺旋らせん階段などが、すでに厳密に把握されていた。幕末に大成された規矩術は、明治期にいたって様式の差異をのりこえて、どのような形状においても用いることのできる極度に抽象的な次元をふくんでいたからである。

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(図:平内廷臣『匠家矩術新書』嘉永元年(1848)、規矩術の大成、数学による建築形態の抽象表現)


中村の懸賞企画は、このような背景を前提として提案されたのであった。規矩術者らの権力は制度的には無きに等しかったが、方法的には、すでに西洋建築の全体的な骨格を把握していたのである。それに比較して明治20年代よりはじまる日本人建築家の、建築の実体化に関する把握力、統率力は、むしろ劣っていた側面があった。彼らが唯一大工より優れていたのは、図面の上で実現される意匠記号においてであった。ここで一つの困惑すべき状態が発生する、私たちの前提となっているモダンの出自は、どこに置かれるべきなのか、という問題。


●近世建築は、すでにモダンなシステムを構築していた

1884年のある西欧の建築雑誌は、日本の伝統的な住まいを記事に採り上げ、畳が普遍的に取り換え可能であること,その面積単位が住居全体の規模を決定するモデュールになっている点等について,その合理性を高く評価し、将来の建築の〈鏡〉として把握している。
日本における近世建築が獲得した技術は基本的には、モダンなものである。一般に日本建築の近世は建築的には何も生み出さなかった時代と総括されることが多い。しかし、それは成果物としての建築作品を対象とした指摘に過ぎない。むしろ近世は、建築が建設されるまでの流通のプロセスが異常に発展した時期であった。幕府の統制下で、棟梁達は官僚的な事務作業に重きを置くようになっていったとされる。つまり彼らにおける最先端は、設計標準類としての建築書をまとめ公刊することであり、安く早く仕上げるために積算技術を磨くことであり、建築形態の把握術としての規矩術を磨くことであった。つまり建築表現内部での展開というよりは、再生産の迅速化を目的とした経済的、外在的位置からの建築把握といったスタンスに、当時の建築技術の最前線が移行していたのである。これらは現在でも坪単価制や、〜畳といった空間表記に綿々と生き残っている。この影響は、当時の近世の地縁的労働組織の改革と相まって、設計技術の流通を推進し、町場の大工たちの技術的競合の下地を作ると同時に、分業化された専門職(職人)を出現させる方向を補完した。さらに規格化への技術上の内的要因となり、当時の商業資本や流通過程の発達をともなって、標準寸法、木材、建具、畳等の商品化を推進した、といわれている。つまり近世末における日本建築生産の特質は、自らの全体性を、社会に向けて分析し、対象化し、解体してゆく過程なのであった。明治における規矩術とはその末端に位置した象徴的な技術であった。


●建築をめぐる抗争がはじまった

中村が語彙の蒐集しゅうしゅうを始めたのは、おそらく、このような現前するモダンとしての近世を目の当たりにしたからであった。前述したように中村は、帝国大学で教鞭きょうべんをとる以前の5年間(明治15−20)に、皇居の造営事業に事務方として参加している。おそらくこれが、彼にとって本格的な伝統的日本建築の全体像に関わった初めての経験であったであろう。この〈遭遇〉は、大学において高等建築教育を受けた人物としては、最も初期のものである。この5年間で彼が遭遇した具体的なできごとは知られていないが、おそらく事務方としての作業を遂行する際に、現場の大工棟梁の用いる専門用語は大きな障壁となったに違いない。
近世期の漢学者である荻生徂徠そらいは、オランダ語のことを「侏離鴃舌しゅりげきぜつ」(侏離=野蛮人の音楽、鴃舌=モズの鳴き声)とたとえたといわれる。漢文の素養はあるが旧来の建築文化とは何の関係もない旧士族の出身で、大学教育で洋語になじんだ中村においては(これは帝国大学で高等建築教育を受けた建築家たちの多くに共通する社会的性格である)、逆に大工棟梁の発話こそが、モズの鳴き声に等しかった。しかしその意味不明の音楽、符牒によって、事実、建物は建設された。声の裏に潜む圧倒的に不明示な層の存在。近世的モダンとできたての日本近代との断絶した重なり。建築の全体的な把握は、この場合如何になされるのか。中村のその後の方向性は、この遭遇によって決定づけられたと思われる。
明治19年に帝国大学の造家学科の出身者たちによって設立された造家学会は、しかしながらその機関誌名は「建築雑誌」と銘打たれた。その後明治30年になって学会は建築学会へと改名された。
これまでの近代建築史学の見解では、この経緯を、技術的な意味の強い「造家」から、芸術的意味を含む「建築」への「発展」として語ることが多い。しかしこれは現在の「建築」のパラダイムを安心させるための事後的なパースペクティブに過ぎない。近年の研究では、明治初期においては、むしろ家を「造る」という明確な意図を込めた「造家」の方が芸術的創意の意味を含むものであり、逆に「建築」は従来の建設行為、塀の築造、鉄道の敷設、電信柱の設置等々、より広範に用いられたことが判明している。「建築」・「造家」は何れも、幕末期におけるArchitectureの訳語なのであるが、つまりは「造家」こそが、帝国大学ら工部省のインテリが意図的に選びとった単語だったのである。
実は、「造家」が「建築」へいたる過程は、建築家側の用語の敗北をも示している。明治20年代当時、「造家」はほぼ帝国大学内のみで用いられるようになり、その水位差は広がるばかりであった。造家学会の自発的な建築学会への改名行為は、以上のような意味で、「建築」に対するクーデターとしての役割をはたすものであった 。今にいう「建築」の成立は、近世モダンと明治以降のモダニズム的意志との調停作業の結果である。
学会の設立当初、中村は、造家学会の「建築雑誌」という、象徴的な器の編集委員に推挙された。中村は水を得た魚のように活動した。創刊当初の数年においては、様々なペンネームを使いわけながら、その誌面のほとんどを一人で執筆した号もあったという。明治の人物には常軌を逸するような作業量を残す人物が多いが、中村もその一人である。その背景には、たとえば「造家」と「建築」をめぐっての抗争関係のように、何か錯乱した状況を背景に想像することも、あながち不自然とは言えないはずである。
辞彙に連なる蒐集作業は、出版16年前の明治23年より、「もしほぐさ 」と題して、断続的に「建築雑誌」に報告されはじめる。



●中村は、言葉に対応する対象が一つではないことに気づいてしまった

中村の蒐集、注釈作業が辞彙に結実するまでのプロセスは、すでに源愛日児がまとめている 。
それによると報告を始めた明治23年以降、同雑誌明治24年第56号「建築語一定法ニ就イテ」の中で、西欧の建築訳語が一定していないことを十数年前より聞き及んでいるとし、その訳語の統一を求め、「簡易なる文字を用いる事」「他国語の言い難くして職人に不適当なる語はこれに似よりて新たに日本語を製する事」「用い慣れ居るものといえども大いに不穏当なる文字はこれを改正する事」などとしている。続いて同25年第65号では「みだりに原語に拘泥するなかれ」と主張し、さらに辞彙出版直前の明治37年第205号「建築語に関する卑見」の中では「我国建築語の数はなはだ多く余の編集したるものにても既に二千余言に達せり其中意見あるもの少計すこしばかりを抜粋し順次これを掲載せん」として70余りの用語について読者に意見を求めている。そしてこれらの主張の暫定的結論が、辞彙においてまとめられることになる。
その主張は大きく二つに、かつ対立的に別れる。


一つは序にあたる「はしがき」での主張である。
いささか乱暴にまとめると、語の選定については、言葉の必要不必要はその人の職及び境遇によって大いに相違があるから、「技術家」なる自分が必要と信じた言葉のみを蒐集した。またその際には、「高襟ハイカラーよりは印半纏しるしばんてんを取れりと答ふるのである」。それゆえに古語及び雅語よりはむしろ通用語を、文字よりは言葉を積極的に認める、とする。そしてこれら大方針は大方針にすぎず、各語についての具体的な採用の基準は一々決定するより仕方がないとして、続いて五つの具体的事例をあげる。

一,読みやすいようにすること(無意味な当て字であっても既に習慣となっているものは採用する、ただし文学者風に「あずまや」に「四阿」を当てることは不賛成、また屋根の形状をさす「きりづま」を「切妻」と書くことは学的には不適当であるが、「印半纏主義」としてはかまわない。)
二,紛らわしい文字は避けること(「はぐ」に「接」を当てるのは「つぎ」に読めるからよくない。「矧」は当て字であるが、混同がないのでよい。)
三,なるべく簡単な字を用いること(「垂」はいいが「埀」はよくない。)
四,ひとつの言葉に一定の文字を当てたい(「軒」「簷」「檐」は「軒」で統一したい。)
五,日本字をなるべく用いたい(「つか」は現行分かりやすいが、「■(きへんに又4つ)」という中国語を当てたり「短柱」を当てることは好ましくない)
そして最後に、支那字及び洋語を排斥するのではなく「崇拝及び心酔が大嫌いなのだ」と念を押して終わっている。彼が単なる排斥論者でないことは、洋書を通じて知りえた欧米の建築技術を日本語に適用させ、建築各職に分けて説明した『建築学階梯』(明治21-23)が存在することでも知られる。これらの主張は以前からの提案内容の延長上にあるだろう。

さてもう一つは、巻末に付された論文「建築語及び文字について」である。こちらの方は、中村による語源の検討事例が多数掲載されている。(天)文字の部、(地)言葉の部という明確な二部法で構成され、当時流通していた建築用語を具体的に示し、それぞれの側面からその生成過程を論じている。その詳細を検討することは能力を越えるが、その論点は以下の言葉の生成のカテゴリ分けを見れば明らかであろう。
(天)文字の部
(一)古人が支那字の意味を取り違えたるもの
(二)古人が支那字を書き誤りてそれが自然に日本字となりたるもの
(三)是非とも改めたき誤謬
(四)当字
(五)支那にて動詞に用いる字を我国にては名詞となすもの
(六)支那におけるよりは広き意義を有するもの
(七)日本字
(地)言葉の部
(八)誤謬の言葉
(九)文法上誤謬の如くに思わるる言葉
(一〇)疑わしき言葉
(一一)原意を失くしたるもの
(一二)言葉の変遷


以上前後者、二つの重なり合いが、結果的に中村の総体的な主張となっている。
前者の序文における中村がめざしたのは、和洋の別なく、当時の建築用語に一定の表記のルールを与え、一対一対応を理想とする、透明な建築原語の世界を作ることであった。ただ錯綜する用語に統一した体系を与えようとした動きは、既に近世の官僚的大工棟梁によって試みられていた。たとえば東都工匠長官・溝口林郷りんきょうによる『紙上蜃気』(1758/宝暦八)は、約2300もの当時の建築用語を羅列、収録している 。田中文男によれば、『紙上蜃気』の題名は海上に生じる蜃気楼にちなみ、紙上に建築の要素を挙げて楼台のかたちを示すこと−つまり現実とは別の平面上で建築を透明な記号の体系として構築すること−をめざして、名づけられたという。

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(図:紙上蜃気表紙)


このような運動は、近世後期において、職人の初等教科書であるいわゆる往来物おうらいものとして流布した。つまり近世にいたるまでに、すでに建築言語はそれを公定する必要があるほどに錯綜していた。というよりも、そもそも言葉に、整然とした体系はないのである。これらの近世期の「辞書」には、通常文字のみが羅列されており、その意味は説明されていない。言葉の意味は黙知であり、むしろそれを客観的に流通させるための書き方を統一することだけが、求められていたのである。近世のモダンは、アンダーソンのいう公定を、客体としての漢字表記の上で実現させることによって、成立させたのである。この作業が全く政治的にしかなされえないことを、中村はすぐに悟った。しかしながら中村の所属していた「造家」が、より外延の広い「建築」に敗北しつつあった当時の状況にあっては、その作業の勝算は少なく、公定作業は、すぐに陳腐化する危険をはらんでいた。
そして明治というさらに異なった文脈が層的にかさなりあう状況にいて、近世の言葉に付着した意味はすでに考古的な事物として、あらたに発見すべき対象になっていた。辞彙での主要な追及対象となった単語は、近世における専門的建築技術書の数々からとられた。これら建築書に収録されている語は、話し言葉として継承されはしたものの、漢字表記とは出自を異にするものが多かったという。中村は語の意味を対比的に考察するため、『家屋雑考』『貞丈雑記』『和名抄』『和漢三才図会』『骨董集』『大内裏図考証』『東雅』など、大工棟梁以外の、江戸時代の各領域のインテリが記した著作を参考書とした。辞彙における後者の論文調は、このような複数のコンテクストを照らし合わせた検討結果としての非体系的、かつ学的な備忘録である。たとえば本論の冒頭にあげた「いばら」については、その成り立ちの経緯と対処法を以下のように論じている。



尖端を有するものを茨といへど徳川時代の破風などには円き端を有する「いばら」も沢山ある。
右のごとき例は余程(よほど)多い。畢竟(ひっきょう)名称を選む場合には其当時の状況を見て将来には無論(かんがえ)を及ぼさぬからである。(もし)古昔木材が無くて(てつ)のみありたらんには「たるき」なる語は出来なかったであらう。今は鐵にて作りたる(たるき)をも「たるき」と称することが便利である。又字に書きても木扁を用ひて(よろ)しい。それと同じく「丸桁」「茨」など何れも原意とは違へども各其名を保存し置く方便利ならん。右は物の形少しく変りても言葉を其壗(そのまま)に用ひたる例である、次に言葉同じくして物大いに変はりたる例を示す…(句読点は引用者による)

一般に言語は、事件的にその意味を他と関係づけていく。加えて「日本語」というシステムは、中国文字(客体)に非体系的な言葉(主体)が恣意的に転写され(当て字、誤写)、その文字上の変化が逆に言葉を変えてしまう。あるいは文字だけを残して、そのさししめす対象が全く変化してしまう。中村が喩えたように、「さよう」が「左様」と当字され、それが文章の右部分を示しているものだから、本来は「右様」が正しかったと「厳密に」解釈される。この構造においてはアルファベットも中国文字の役割と同じことである。ひとつの用語の生成過程は、言葉のネットワーク、さらに日本語におけるような言葉と文字とのずれをめぐる偶発性に満ちており、岡崎乾二郎の言うように 、そもそも単一な体系的ルールには事後的にしか当てはめられない。それならば、中村のいうように、おのおのその名を、矛盾を抱えたまま保存しておいたほうがいい。むしろこの日本語の客体(文字)と主体(主体)とのずれの中に、異なった径路をたどった、ある言葉の史的個別性が敷衍されるからである。しかも、変転の激しい現場の用語は、そこに当然発生すべき、みえがかりの主体性をも欠いてしまっている。中村の作業を日本近世と日本近代という二つのモダンと決定的に異ならしめたのは、これら平面下の構造に、直接触れようとした方法にあった。



●近世は「伝統」と命名されて、人々を安心させた


明治期に興隆した規矩術書、ならびにそこでの活発な洋式建築への規矩術の適用は、総じて大正期にいたって減少する。これは建築学会が中村達太郎らの第一世代の手を離れて、佐野利器ら、日本の本格的なモダン建築を推進した第二世代の手に渡ったころと時期を同じくしている。この規矩術衰退の原因として、まず第一に、構造を一体として計画し、かつ陸屋根を可能とした、当時の鉄筋コンクリート造の発達があげられる。これは、個別的部材の集積を前提としていた規矩術の、実際上の適用範囲を根底から無化するものであったといえよう。この原因はまず何よりも大きかった。しかしながら規矩術の普遍的性格は、これらの状況に対して、方法的にはまったく外在可能であったといえる。
だから問われるべきなのは、規矩術に対する社会的認識の変質の方である。大正期以降、規矩術は伝統的技術の一つとして、次第にその価値が決定されてゆくように思われる。例えば昭和初期に佐野利器の提唱により編纂された大系的建築書シリーズである『高等建築学』全二六巻 において、規矩術は第八巻「建築構造」における第17編「社寺建築」(角南 隆著)の項にかろうじて記載されるのみになった。大正から昭和にかけての、日本近代のモダン平面を構築しようとした人々によって、規矩術は「伝統」的技術、いわば「過去」のものとして、制度的にようやく疎外されることになったのである。

明治30年代は、「和洋」あるいは「近世と近代」が、等しく現在的な事物として現前していた最後の時期であった。中村の『日本建築辞彙』は、その時に書かれたのである。

現在、辞彙は、稲垣栄三を主査として、改訂増補が継続される予定であることを、付言しておく。
(稲垣先生は逝去されましたが、有志によって改訂継続中です。2003年には何とか出版されると思います。20020501記)

−註−

註4から抜粋、『モダニズムのハードコア 現代美術批評の地平』(『批評空間別冊』太田出版、1995年)に所収
引用者註 加賀国、現在の石川県の一部のこと
中村達太郎『日本建築辞彙』丸善書店刊、明治39(1906)年6月発行、昭和6(1931)年改訂増補版
中村達太郎の『建築雑誌』の編集委員の担当時期は中断をはさんで3回あり、1回目が明治19−25年、2回目が同28−31年、3回目が同34−36年である。
『建築雑誌』,217号,p.4,明治38年1月に掲載
現在、国立国会図書館に所蔵されている明治期建築書159冊のうち、規矩術書は49冊である。規矩術書は、カテゴリ別にみると、圧倒的に一位の座を占めている。
これらの経緯については、中谷編集、金行信輔、倉方俊輔、清水茂敦、山崎幹泰共同執筆「建築改名100年」『建築雑誌』1410号、1997年8月を参照のこと。
もしほぐさ;もしおぐさ【藻塩草】藻塩をとる材料にする海草。アマモの類。(掻き集めて塩水を注ぐことから、歌などに、多く「書き集む」にかけて用いる。『広辞苑』岩波書店、第五版、1998年。
源「日本建築辞彙を読み直す」出典は前註7に同じ
この作業の抜粋は同時期に『木匠言語』(1757/宝暦七)として公刊された。
岡崎「建築と古文字学」『10+1』No.18、INAX出版、1999年
常磐書房発行、昭和7年から9年

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