住まいの先生

中谷礼仁


Q:住まいづくりに建築家は必要か?

A:原理的には必要ありません。でも先生と呼びうる存在は必要です。

解題: 住まいには住む人(住もうとする人)がいます。もし彼が自ら住まいづくりを行った場合、それに必要なのはまさに彼だけです。
 ところが住まいには建てる人がいて、それをなりわいとしています。現状では請負業、すなわち住宅メーカーや在来の工務店といわれる人々です。住む人自身が持つ技術は、住まいづくりに対して往々に限られていることがありますし、四六時中建設作業に関わっていられないこともあり、彼らはその手助けをします。また人々がこみいって暮らしている都市部では、住まいづくりに対するそれ相応の共同的なルール、規制が成立するはずです。その規制が複雑なものになる場合、住もうとする人単独の処理能力を超える場合があります。その際にも、おそらく建てる人に所属する建築士が手伝ってくれるはずです。
 彼らは、所有者になる人の思い描いた住まいのイメージの実現化を手伝います。彼らの実現力にも限界はありますが、原則として所有者の意志を尊重するはずです。また建設作業は彼らが請け負っていますから、なんらかの保証も存在するでしょう。所有者にとって、建てる人に実現化を依頼することは、建設費用が増大するという決定的な欠点があるものの、建設の実際に関わる保証、社会的責任を彼らに担当させられる点が大きなメリットです。しかしこれらはいずれも住む人が、専門的知識を身に付け、社会的責任を全うすることができるのであれば不要です。もし請負業が社会的責任も保証も担当しているとすると、まず住まいづくりは住む人と建てる人だけで奇麗に完結してしまいます。では住まいづくりにおける建築家の役割とは何なのでしょうか。
 
一般に住む人が建築家に住まいの設計を依頼する理由を考えてみましょう。端的には、既存の住まい、ならびにそれが生産されるプロセスに彼が満足していない状況が考えられます。何らかの理由で、それらが住む器足りえていないと彼が感知している場合です。住まいにおける建築家の存在は、この住む人の不満足、直観に依拠しています。
住む人が期待し、建築家によって解決されるはずの、その不満足の種類は大きく二つに、そして決定的に別れます。
 一つは、彼らの思い描く住宅像をさらに正確に実現することを、住む人が望んでいる場合です。この場合の建築家の存立根拠は、住む人自身の期待像に見合っていない彼の建築的能力を補うことに求められます。しかしこのような状況は、双方にとって大変不幸であると言えます。住む人は本来自らが実現すべきはずの住宅像を、諸々の理由から実現できていないという悩みを抱えて、建築家にその代行を依頼しました。実はこの時点で、住む人は建築家にアンビバレントな愛憎の感情を持たざるをえません。一方で、建築家は依頼(信任)された者として、それなりの提案を行おうとします。この場合、両者にはいくつかの目標上のずれが含まれざるをえません。建築家は人の金で好き放題やるなどという住む人側の悪口や、住む人への説明とは異なる意図を建築家が往々にして隠し持っている場合が多いことは、全てこのような両者の基本的関係の矛盾から発生するものです。またこのような場合の治療法は、住む人自身が努力して建築的知識を身に付け、自ら図面を引くことで解決されてしまいますから、基本的に建築家は必要ないのだと言えます。
 二つめは、住む人が期待する住宅像とその実現を手助けする専門職(ひとつめの場合の建築家を含む)だけで成立してしまう住宅づくり自体に、住む人が不満足を感じている場合です。各人の好き勝手があわさって社会が構成されることに、人間は倫理的な不安を感じることがあります。それが本当によいことなのか、自分では決してわからないからです。もし自ら充分にこれから作る住まいのイメージが描けている人物が、あえて他人に設計を依頼する場合があるとするなら、そこにはこのような心理的機構が発動しているはずです。このような場合に要請された、建築家とは一体どのような存在なのでしょう。
 その場合においては、建築家は究極的には、住む人の代行や、線を引くこと、かたちを提案することや、社会的な保証を担当することが求められているわけではないかもしれません。そこで求められているのは、住む人と建てる人だけで完結してしまう住まいづくりに、いまだ気づかなかった公共性を挿入することなのです。
 その資格のある人たちを、人は先生と呼び、その必要性を認めていました。もちろんその公共性とは、建築家の方便としての既存の美辞麗句ではありえません。いまだ見えない、新しい公共性のために、線が引かれ、かたちが作られる場面も、きっとどこかに存在しているのです。建築家が、時たま「先生」と呼ばれる理由はここにあります。しかしながらその「先生」の役目は、「建築家」という単一の職業に求められるものでないこともまた、明らかなのです。


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