忘れられぬ話

中谷礼仁

1987年に立松久昌さんに初めて会いました。当時22歳の私が作ったへんてこりんな設計作品が展示されていたのを、面白いといって唐突に電話してきてくれたのです。そうしたら偶然にも私が、彼の大学時代の先輩女史の息子であったことが判明し、それ以来、おつきあいさせていただくことになりました。彼いわく、「俺は母上に世話になったから、おまえがどうであれ、礼は返すぜ」とのことでした。いずれにせよ私は、知らず知らずのうちにいろんなところに連れていかれ、そして田中文男さんをはじめとして、数限りない素晴らしい人たちに会わせてもらいました。結局そのときに培わせていただいた体験が、現在の自分の方向性のおおもとの一つになったことに、今さらながら気づきます。自分で考え、獲得したと思っていた体験が、彼によってしつらえられた場所から始まったことに気づく時、私は立松さんの底知れぬ奥深さを感じて震えてしまいます。おそらくこのような思いは、彼に関係した人であれば、共通して持ちあわせているのではないでしょうか。

いろいろな話を伺いました。忘れられない話があります。彼の幼少時代の思い出話です。
当時の四谷には被差別部落があったそうです。信濃町住まいの立松坊やは、そこを行ってはいけない場所として母親からきつく戒められていたそうです。ある日、その谷間のような場所に迷い込んだ少年に災いが起こりました。その場所の少年たちに捕まえられたのです。年端も行かない彼は必死で抵抗し、その歯で相手の腕をそのままちぎらんとするかのように噛みついたそうです。
大事になりました。大人までもが騒ぎだし、その場所の古老の許に彼は連れていかれたそうです。冬の寒い朝のことでした。古老の吐く息が白かったそうです。がくがくおびえながら正座させられた彼を前にして、その古老は意外にも言いました。「坊や、どうぞ許しておくれ。そしてもう二度とこの場所に来るんじゃないよ。」そして彼は別れに菓子をひとつ貰ったそうです。もちろんその場所が、以降の彼の主要な遊び場の一つとなり、腕に傷跡をおった少年が悪友の一人になったことは言うまでもありません。
何年かしてその古老が死んだ時、彼には埋葬の資格がなかったことがわかったそうです。彼は無宿者でしたから。周囲の人々の願いに応じて、弁護士だった立松少年の父親が、なんとか古老に戸籍をあてがったと聞いています。
私はこの話が好きでした。凍てつく空間から吐き出された白い息というイメージが何とも美しく、そして暖かく、立松さんの人づきあいの原点をかいま見るような気がするからです。

立松さんは荒々しい人でした。許せぬことには激昂しました。でもとても礼儀の正しい、思いやりのある人でした。荒々しさを礼儀のなさと混同する人は文化のない人です。立松さんの思いやりは、あの谷間での経験のように、他人の痛みを理解するということから生まれています。残念ながらその理解は、生得的なものではないようです。それはまさに他者とわたりあい、その困難を経験しつづけることによってのみ獲得できる宝石です。それを文化といわずしてなんというのでしょう。立松さんは、それを守りつづけるために、走り回った人です。どうなるかもわからぬ私のような「馬の骨」「チンピラ」にさえその軌跡は、深い共感をもたらし、今に至っています。

ひとときの退院の頃だったと思います。私は偶然、神田の古書店で『日本の集落』という本を見つけました。変わりゆく日本の集落の、その谷間にひろがる姿を空撮した貴重な本でした。恥ずかしいことに私はそれが立松さんの仕掛けた成果であることを知りませんでした。早速彼に電話をして、バックナンバーの有無を尋ねました。「そんな昔の本、あるかわかんねえけど、まあちょっと倉庫調べてみる」と言っていただいた一週間後に、その第二巻と第三感が手もとに送られてきました。感謝の連絡を入れると「悪かったな、第一巻目だけはもうなかったよ」と彼は言いました。でも立松さん、大丈夫です。古書店では、第一巻だけ手に入れることができていたのですから。重ねて、お礼申し上げます。

関連リンク

議事録
http://www.ayumi-g.com/kenchikujuku/juku2000/00-17/ht.html

訃報記事
http://www.sankei.co.jp/news/030919/0919dea016.htm

「立松久昌」で検索
http://www.google.com/search?q=%E7%AB%8B%E6%9D%BE%E4%B9%85%E6%98%8C&ie=UTF8&oe=UTF8