不能なる「都市」、不能なる「私」


おそらくなによりも「東京日記」が新しかったのは、この怪異譚は、この種の話がおちいりやすい「現実」と「異界」という簡単な構造を、ことごとく崩しているということです。
これを象徴的に表しているのが、表中の状況設定の推移です。第四話までを簡単にまとめてみて気づいたのですが、たとえば「その一」「その二」においては、怪異現象が起きている部分(表中下線を引いた部分)が中盤以降を占めるという、現実から異界、そしてふたたび現実へ戻るという怪異譚らしい構造をまだ見ることができます。また雨の降りだし、暗やみ等の状況変化の前兆によって、それらおのおのの時空の区別はかなり安定しています。しかしこのような安定的な構造は後の話にゆくほど崩れてゆきます。
「その三」では異界の部分は、自動車を効果的に用いることによって、皇居周辺から始まり錦糸町へと至る東京東部の広い領域までをもカバーしつつあります。つまり「異界」が、拡がりつつあるのです。
「その四」にあっては、いきなり丸ビルが消滅しているという非現実な状況設定から話がはじまります。そして再びもとの姿にもどった丸ビルを前にした現実的な風景がひろがる結末で、主人公である「私」は丸ビルが忽然と消え、再び現われたここ二、三日の不思議さを、「これだけの大きな建物になれば、時時はさう云ふ不思議な事も」あるだろうと判然としないままうけいれようとしています。昨日まで、ビルの跡地の水たまりを走っていたあめんぼうについて彼が思いをめぐらしているというこの話のオチは、二つの過去を同時に表すことができる主人公の記憶のメカニズムを巧みに用いることによって、「現実」のなかに「異界」がくりこまれてしまった状態、境界が朦朧となりつつある認識の状態をうかびあがらせているのです。
そしてそのような、どちらともいえない時空だからこそ、怪異現象をまきおこす主体たちは「異界」という明らかな出所を持つ化け物にはなりえずに、化け物とも形容できない奇妙な「もの」として、都会の闇に理由もなく潜みつづける無意味を与えられているのです。そのための「車」であり、「足音」であり、「男の声」という無性格な存在だったと、私はいま気がつきました。
異界の論理からも放逐されたバガボンド(放浪者)。彼らを前にしては、「私」自体も彼らに曖昧な立場をとり続けざるをえません。なぜならこの時空の中では、主人公としての「私」も、現実としての「東京」でさえも、一体何時何処の住人、場所なのか、わかりはしないのです。このような変転きわまりない認識の構造は、主人公である「私」や彼が生きる現実である「東京」にまでも変質を及ぼしているのです。これまで確固とした意味を育み、像を結んでいたはずの近代的な都市や人間の在り方が、作者の緻密な構成によってその意味をはく奪され、根こそぎ問われていると言ってもいいでしょう。
こんなとき「都市」や「私」は眼前の出来事を前にして、もはや主体的にかかわることはできずに傍観のみが許される不本意な役割を担わされることになります。
しかしここで大事なことがあります。「東京日記」における、この不能なる「都市」、そして「私」は、その不自由な役回りの中で、しかし眼前に拡がる何物かを見続けていたということです。

次を読む→

Back To Index