空堀町の陥没
地区名称 上町台地
和歌の技法 「見立て」
□連鎖分析
大阪市中央区の上町台地を歩いていると、台地を東西に横切る、幅40〜50mの緩やかな陥没に遭遇する(fig.A,E)。この陥没は、豊臣期大阪城を取り囲む防御施設であった、惣構の南辺(fig.B)にほぼ一致する。惣構南辺は、地形上唯一の弱点であった城南方に築かれた巨大な空堀であったが、大坂冬の陣の後、東軍との和睦条件によって埋め立てられ、現在に至る。しかし、現在でも陥没した地形は秀吉の遺構としてよく知られているし、空堀、清堀、空清などの地名によって、昔の状況を伺い知ることが出来る。
しかし、埋め立てられはずの空堀がなぜ現在陥没しているのだろうか。発掘調査によれば、当時の惣構の規模は、幅20m以上、深さ10m以上であったという(積山洋「豊臣氏大坂城惣構の防御施設−発掘調査の現状と課題−」『大阪の歴史』46号、大阪市史編纂所、1995)。ということは、現在の陥没の幅と空堀の幅には30m近いずれがあることがわかる。このずれが現在の陥没に関係しているとするなら、図に示すような推測が可能であろう(fig.C)。つまり、堀を埋めるには当然土を要する。その土を外から運んでくるのではなく、堀を崩してなだらかにしたと考えて見てはどうだろう。その方が仕事量も少なくて早く埋め立てられる。実際、この巨大な空堀は、たった3日で埋め立てられたという(『新修大阪市史』第3巻)。
埋め立て後、この堀跡は農地化し、明治以降小さな民家が建ち並ぶようになる。そして、空堀跡一帯は、この地にしては戦災から奇跡的に焼け残ったため(陥没との因果関係は不明)、現在でも古い小規模な建物が集中して残っており、それらが陥没した地形に納まる光景は、この地に独特な性格を与えている(fig.D,E,F)。
□まとめ
以上、推測の多分に入った分析ではあるが、秀吉の遺構と認識されているこの陥没が、秀吉と家康の共同遺構であることは間違いないだろう。そして、そのようにして出来た緩やかな陥没という微地形だからこそ、かえって気付かれずに、現在にまで残っているのである。(中島)