●都市の現在は何によって構成されているのか〜過去こそは現在である
では都市のことを考えてみたい。私たちが生き、そして日々流動する都市はまさに現在性の象徴であるから。そのドラマに過去は全く介在していないかのようにも思える。しかしながら冷静に考えてみると、都市という現在は過去の事物によってのみ構成されているのではないだろうか。
都市は「現在」ではない。ベンヤミンをひもとくまでもなく、私たちの都市のイメージを胚胎させるのは、これまでに造られてきた事物である。文字通りの意味で、私がこの記事を書いている空間は、50年代に建てられた校舎であり、その校舎の中の、デスクトップがのっている机は、私が粗大ごみ置き場から発見し救い出した戦前の頑丈なものだ。つまり現在のイメージは直前からはるか昔までつながる事物のネットワークによって生み出されてくるものなのである。現在には始めから分かちがたいかたちで過去が入っている。その時私たちは過去を死んだ「過去」として触れてはいないのである。この状態は、単に「現在」と「過去」という強固な二元法をはずしてしまえば、非常にナチュラルに感じることができる。
例を挙げよう。このような地平に到達しえた数少ない運動の一つに、街区再生手法として70年代のイタリアを席巻したティポロジア(tipologia edilizia)がある(註:参考:陣内秀信『イタリア都市再生の論理』SD選書、1978年)。当時、ティポロジアによる批判の矛先は、60年代までの歴史的建造物の保存手法に向けられていたという。それは現在なお日本でも主流である一点豪華主義、いわば歴史的に貴重な建造物のみの保存である。あるいはファサード保存であり、歴史的に貴重とされた正面だけを残して、内部はつくりかえるというような手法である。ティポロジアの推進者たちは、これらを文化的アリバイとして批判したのである。しかしこの批判にはさらに大きな問題がからんでいる。歴史的価値とは、いったい誰がいつどのような理由において決めることができるのかという難問である。平たく言えば、歴史的に貴重なものとは言え、それは現在の私たちからしか決めることができない。つまり隔離され、あがめ奉られた「過去」とは、「現在」の私たちが自らの都合で決めるほかはないのである。「現在」の私たちと、「過去」の事物をこのような不自由から救い出すには、両者をつなげるティポロジアータイプという超歴史的な視点を設定する以外に無い。

(図1:ティポロジア的認識のモデル(中谷作成))

そんな彼らが武器としたのは、連続平面図という手法であった。それは、ある街区の部屋割りから都市配置までを一元的に切断する方法であった。

(図2:サンタ・マルゲリータ島に生きる原初ラグーナ組織)

このとき通常の都市−建築という階層は消えさリ、潜在する層としての各時代の平面類型が相互に干渉し、変容し、転用されていく様が映し出された。過去は充分に使われていたのだ。これこそが私たちが先の23件の長屋群の変容を見た際に驚かされた核心であった。このとき都市-住まいは「現在」「過去」という分類記号をはく奪され、現前するオブジェとして立ち現れてきた。都市はかたわれの「現在」でなく、形容しがたい可能的な事物の集積なのである。
以上のような意味で過去は使わなければならない。それでは、何を残し何を壊したらいいのだろうか。




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